堂々と遺伝的差別を肯定する週刊現代について


※ 多くの人に見ていただいているようですが、「差別」の説明のところの記述に問題があるようなので書き直ししております。ゴメンナサイ。6月11日

まただよ。出たコレ。ウケる〜*1

血液型より正確!? あなたの性格はDNAで決まっていた(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

なんて書いてますが結構イラついています。正しい科学的知見をできるだけ多くのサイトが書くほうがいいようなので*2、本来日本にも素晴らしい研究者がたくさんいらっしゃる生命倫理学が本職の分野ではあります*3が、聞きかじりの知識くらいならある遺伝統計学者として、頑張ります。

ところで、ここに挙げられている知見、ドーパミンD4レセプター*4セロトニントランスポーター*5の多型が性格に関連する、というの自体は、怪しいものではありません。ただ、数百人の解析でも関連ありになったりなしになったりというレベルの効果量ですけどね。セロトニンの方は「不安」気質の5%程度しか説明しないんじゃなかったかな。

しかし問題の本質はそこではない。

「たとえばアメリカでは、DNA検査でわかった性格を企業の人事配置に役立てたり、教育方法やスポーツ種目の適性を判断したり、さらには軍隊のマネジメントにまで利用しています。それが常識になりつつある。

アメリカ以外では、中国や韓国でも、積極的に取り入れられている。日本は後れをとっているのです」(佐川氏)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36080?page=5

佐川氏って誰よ。まともな遺伝学者か法律家にインタビューしろよ!

ここに書いてあるようなことはアメリカでは厳格に禁止されています。そのお話を今日はします。

なにがいけないのか

歴史的には、そこで佐川氏が主張したようなこと、ヒトの遺伝的情報、ゲノムに書き込まれた情報を利用して社会的な区別をするような行為は「優生学Eugenics」と呼ばれる学問分野の取扱範囲です。が、この学問は現在は存在しません。

なぜならこの学問に基づいて、ナチスドイツがユダヤ人虐殺、ならびに障害者虐殺を行ったとされるからです。

この学問を支持していたせいで、20世紀最高の知性の一人と私が思うロナルド・フィッシャーですら戦後に英国の教授職を追われ、異国で客死したほどですよ。

現代においてはどのようなことが起こりえるでしょうか。例えば次のようなことが起こりえます。

  • 医療保険に加入しようとした際、「あなたは癌になりやすい遺伝因子がありますね。保険料は2倍です」
  • 企業の採用面接で「あなたのゲノムデータを提出してください。はあ、なるほど。君は上の人間に逆らいやすい気質と関連する遺伝因子を持っているね。採用できません。」
  • 企業の昇進に関して「このまえ君の髪の毛を内緒で採取して、遺伝子データを調べました。君がアルツハイマー病になりやすい遺伝因子を持っていることがわかりました。管理職になってから大変なことをしでかすとも限らない。部長へは昇進できません」

これが何が問題かというと、

遺伝因子は、生まれ持ったまま一生変わらない

ということです。このように、その人にとって変えることの出来ない特徴を理由として待遇などにおける区別をすることは、差別discriminationの一要件を完全に満たします。タバコのようにやめることができるものではないということです*6。「お前はユダヤ人だから採用しない」と、同じ事を行っているということです。殺しているわけではないだけで、ナチスドイツと同じ事をやっているということです。

そういうわけですから、ナチス・ドイツ後の世界である現代において、これらのようなことを禁止する法律、1990年ベルギーから始まった遺伝的差別禁止法が欧米では一般に制定済みです。

残念ながら、日本の法体系では明確には禁止されていないと思います。

ここではアメリカの法律をご紹介します。アメリカは2008年制定で、遅れていたと言われています。リベラリズムの色彩が強い法律ですが、署名したのは息子ブッシュ大統領です。ただ強烈な推進者は民主党エドワード・ケネディ上院議員で、未来の大統領バラク・オバマ上院議員もそのグループでした。

遺伝的差別禁止法(Genetic Information Nondiscrimination Act 2008, GINA)

アメリカの遺伝的差別についての禁止法はいくつも流れがあってよくわからないのですが、2013年時点では、HIPAAが遺伝情報のプライバシー面を担当し、保険・雇用差別の禁止はこの遺伝的差別禁止法が主にそれに対応しているようです。

法律は専門ではないので、ネットに転がってる日本語記事をご紹介することにします。原文も読んでみたことはありますが、法律的文章って日本語ですらわけわからないし、英語ではなお意味不明でした。ここは専門家に頼りましょう。

遺伝情報差別禁止法は、雇用主が従業員の雇用、解雇、職場配置、昇降格の決定を下す際に個人の遺伝情報を利用することを禁じている。また、特定疾病にかかりやすい遺伝子を持っているというだけの理由で、団体医療保険医療保険会社が健康な人を保険対象から除外したり、それらの人に高額な保険料を課したりすることも禁じている。

http://www.nedo.go.jp/content/100105464.pdf

こちらも読んでみます。

遺伝子情報差別禁止法の規定する、遺伝子情報(”genetic information”)とは、1.本人の遺伝子テスト、2.家族の遺伝子テスト、及び3.家族の病歴、に関わる情報を意味しますが、性別及び年齢の情報は含みません。遺伝子テスト(“genetic test”)とは、遺伝子型、突然変異、若しくは染色体変化を検知する、人のDNA、RNA、染色体、タンパク質、又は代謝物の分析を意味しますが、遺伝子型、突然変異、若しくは染色体変化を検知しない、タンパク質、又は代謝物の分析は含みません。雇用主、雇用期間、労働団体等は、遺伝子情報に基づく、従業員の採用、解雇及びその他の雇用に関する報酬、条項、条件、特権上の差別的行為が禁止されます。また、雇用主による従業員の遺伝子情報の要求、入手、又は購入が禁止されます。

http://www.mtbook.com/america/2008/09/post_49.html

「遺伝子情報」という訳語は感心しません*7が、まあしょうがないか。

こういう優れたプレゼンテーションもありました。法学系のヒトは「genetic = 遺伝子」って訳すことになってるのかな。

http://www2.kobe-u.ac.jp/~emaruyam/medical/Lecture/slides/110210genomeELSI.pdf

原文抄訳もあった。

http://www2.kobe-u.ac.jp/~emaruyam/archive/genome/090205GINA_Summary.pdf

英語が読める方はこちらもどうぞ。

​Genetic Discrimination | NHGRI


どこからどう読んでも、佐川なんたらいう評論家が言ったようなことは、アメリカで法的に禁止されています。どこのなにが「常識になりつつある」だって。ふざけるな。

日本では

日本では、個人情報保護法によって、遺伝的情報のプライバシーの方は厳格に守られている(はず)です。むしろ厳格すぎて、遺伝学的な共同研究を欧米とやる際に支障が出るほどです。しかし前述のように、少なくとも明文化して遺伝的情報を用いた保険・雇用差別を禁止する法律はまだ存在しないはずです。こちらの記事をご紹介します。

http://medg.jp/mt/2012/11/vol664.html

安倍首相が現在保守政権を率いています。遺伝的差別禁止法は前述のようにリベラリズムの考えが基盤ではあります。企業の営利を優先するなら、特に医療保険において遺伝的差別は容認されかねない。しかし、安倍さんはどっちかというと遺伝的情報差別を禁止することに同意してくれる可能性が高いのではないかと思っています。なぜなら、安倍さんは潰瘍性大腸炎の患者さんだと言うではないですか。潰瘍性大腸炎の発症と関連する遺伝因子は、40以上も明らかに成っています。するとこういうことが可能でしょう。安倍さんがまだ政治家を始めようかとする頃に、

  • 潰瘍性大腸炎の発症と関連する遺伝因子を持っているから将来政治業務を遂行できない可能性が高い。安倍氏は議員として不適切である。

と、対立候補が主張したらどうですか。

私はこのような差別は容認しません。

潰瘍性大腸炎に悩む安倍首相、今こそ、明文化した遺伝的差別禁止法を制定していただきたい。親しい学者さんとかいたら、是非進言していただきたいところです。

*1:すいません、日本を出国してしばらくになるので、もしかすると死語で超ダサい始め方してるかもしれません

*2:http://fm7.hatenablog.com/entry/2013/06/07/140130

*3:STSも頑張ってよ

*4:Population and familial association between the D4 dopamine receptor gene and measures of Novelty Seeking | Nature Genetics, Dopamine D4 receptor (D4DR) exon III polymorphism associated with the human personality trait of Novelty Seeking | Nature Genetics

*5:Association of Anxiety-Related Traits with a Polymorphism in the Serotonin Transporter Gene Regulatory Region | Science

*6:ただ、実を言えば喫煙しやすくなる遺伝因子というのも見つかっています。これは私が消極的な禁煙論者に過ぎず、喫煙者を犯罪者かのように言う言説に首を傾げる理由の一つです

*7:端的に言うと、遺伝子上ではない、例えばプロモータ領域や、3'-UTRでmRNA不安定性に寄与するような多型、ncRNAやエンハンサーの多型だってすべて普通にgenetic informationだからです。「遺伝的情報」もしくは「遺伝情報」がよい

SSHと科学研究、学会発表や査読付き論文投稿について

ちょっと古い記事のようですが、id:semi_colonさんのブクマ経由で読みました。SSH(セキュア・・・ではなくてスーパーサイエンスハイスクール)がEM菌の研究をしているようだ、との批判。

科学技術立国日本の未来を蝕むEM菌 - Togetter

なんと言えばいいのか、科学の原点に戻るというなら、例えEM菌だろうとなんだろうと、計画して、実験して、自分で結論を導き出すというのはまあ悪いことではないと思うんです。EMを少しでも取り扱ったならただちにニセ科学で糾弾すべきだ、とは私は思わないのです。まあ本職の研究者は大体そう思うでしょうけど。

そのうちにはEM菌はたしかに効果があったとする実験結果がでることもあるでしょう。そりゃあそうです。高校生程度が、高校教師に指導された程度*1で、完全にコントロールされた信頼度の高い実験をできるということはないでしょう。っていうか、それを言ってしまえば本職の研究者だって学会発表とか論文投稿すりゃコントロールができてないことを批判され、やれ実験条件が安定でないだの、やれネガコンが必要だだの、言われるわけで、レベルには違いがあるけどそれは、科学とはそういうものだと思います。

しかしね、もしそれを科学の原点に戻ってやるというなら、その研究成果を学会で発表して質疑を受けたり、科学雑誌に投稿して査読を受けるまでしないと一貫しませんね。例え高校生であろうとです。そこで初めて科学の厳しさを味わうわけですから。

そこまでやらないなら「スーパーサイエンス」の看板を降ろすのがよろしい。

そういう意味では、ちょっと古い話になりますが、私の分野においては以前SSHの研究成果として日本全国耳あか遺伝子マップの作成、というのがありました。

これは素晴らしかった。

まず第一にこれは一校のSSHの成果ではなく、多数の*2SSHのコンソーシアムの成果なのです。そうです、大規模研究が普通にいくらでも行われている現在の世界の科学研究の潮流です。いろいろなラボの研究者があれやこれや文句を言いながらも一つの目標に向かって実験を積み重ねつつ、結果が揃ってきたらまたあそこはデータを出してないだのここは実験が怪しいだのあいつは偉いだの俺はそう思わないだのああだこうだ言い合っていく、研究コンソーシアムをすでに高校生の時点で結成してしまうなんてマジ素晴らしい。いい経験だ。

そして彼らは研究成果を日本人類遺伝学会で発表したんですよ。高校生が。

耳あか遺伝子に地域差 高校生が日本人類遺伝学会で発表 - All Things Must Pass

まあその場に私もいたんですけど、実のところ学会長もやたら優しくて、本音で言えば「学会発表の厳しさを味わった」的なもんではないけど、でもやったじゃん。あんまりおかしければ質問もでるさ。

そしてちゃんと論文投稿して査読を通過してるんですよ。ほら。

The Super Science High School Consortium. Japanese map of the earwax gene frequency: a nationwide collaborative study by Super Science High School Consortium. Journal of Human Genetics 2009;54:499-503.

SSHの高校生たちの名前がAppendixにズラっと*3!JHGは日本人類遺伝学会の機関誌みたいなもんでしたが最近は結構頑張っていて、Nature Publishing Groupに入ったし非欧米圏の人は結構投稿してる感じがあります。査読はもちろんちゃんとあるよ。

ほんとすごいよね、田中清先生。

http://www.jst.go.jp/pr/jst-news/2007/2007-04/page07.html

この耳あかはほんとすごかったけど、まあそこまでの成果*4ではなくても、ちゃんと最後は科学者のピアレビューシステムによる評価を受けてシメる、という科学研究の基本については意識すべきだと思います、特にEMみたいなアヤシいものを扱うなら。

厳しいようですが、こういうことがちゃんとできないような高校は、SSH指定を外すべきではと思いました。まる。

*1:我が母校も今やSSH化したみたいなんですが、どうやら外部指導委員会を設け、大学教授10人くらい連ねてるようでした。そこまですると外部チェックはかなり効くでしょう。どこでもできることではないでしょうが

*2:SSHの半数が参加したらしい

*3:JHGよ、この素晴らしい成果はフリーアクセスにすべきでないのか。少なくとも日本人の税金を使って日本の高校生が出した研究成果だ、JST/日本政府よ、日本国民に対してくらいはフリーアクセスにするための交渉をすべきでないのか。NPGはきっと理解してくれると思うんですけど

*4:まあこの成果も天才的偉業とかではありませんけど、それでも論文投稿には十分値するレベルにはなってると思います

医師の過重労働

見えない所でコソコソと。

2013-06-04

医師の労働時間の件ですけど、僕がこれまでに遭遇した「尊敬できる医師」はほぼ全てワタミ社長タイプだったというのが正直なところ・・・なかなか難しいもんです。内科ですけど。

平日に朝7時から夜11時まで働くのは彼らのデフォルトで、というか通常はそれより早くからそれより遅くまで仕事している。当然かれについた研修医はつきっきりですよ。わりと多くの時間を、患者さんと話をすることに使っていたりします。患者さんとのお話っていうのは、長く話しするも短く切り上げるも医者次第。給料変わりませんから。こういう医者は、患者さんの質問が途切れるまで、不安感がある程度でも解消されるまで、あるいは世間話であろうと、ずーっと応対します。その他の時間は処置や外来でなければ、研修医を教育したりします。他科へ依頼した患者さんがいるならその様子を見に行き、普段の担当医が同席していることを知らせ安心を与えようとします。そうしたら当然、カルテ書きやら指示出しが遅れて師長に怒られたりするけど、そういう人が身を粉にして頑張っているのを知っているからみんなまあまあ、受け入れています。そして最後に教科書を読み直したり、あるいは最新の論文を読んだりして知識の維持やアップデートに努めます。

土日は担当患者さん全てに挨拶しに来ます。その際、その日患者さんが不安定だと思ったなら、研修医とともに週末を病院で過ごします。不安に思う患者さんやご家族のために、何度も顔を出します。夜もそうです。重症になったら何日でも病院に泊まったりします。たまにくさい。しかし不安な研修医にとってこれほど心強い上司はいません。飯もおごってくれます。その時、きらめくような彼の臨床経験を教えてくれます。いや、きらめくばかりではない、身を投げたくなるほどの失敗談もありました。彼らは魂の底から臨床にぶつかっていた人たちだった。彼らはそうやって素敵な人達でしたが、怠惰な研修医に対しては容赦がありませんでした。

彼らはつまり、患者さんのためにほんとに人生をかけていて、そのため無用な研修医なんかは使い捨てられようと、それこそ過労死しようが、目の前の患者さんを救うためならどんな手段でも使いかねないようなそんな人達だったなー。その研修医が過労死しないならば、目の前の患者さんが死ぬのである、とでも言うような・・・そこに命の価値に上下はない。たしかにそうであります。ワタミっぽい。しかしワタミよりもなおのこと強固な論理を持っています、なにせそこに掛かっているのは人の命です。

交代制にすればよいではないかと言う人もいるでしょう。これに対する答えの一つは、診療の質を落とさずそんなことできるほどの医者の数はないこともありますが、もう一つ、おそらくより大きい理由は、医師の能力には明らかに差があり、こういう医者はたいてい有能なので、自分の患者さんを自分の腕で見ていたいという思いがあること。他の医者に診られて、その患者さんが命を落とすようなことが決してあってはならないと思っていること。

そして彼らは一度と言わず離婚の危機を経験しており、家族関係もそんなにはうまく行っていないように見受けた。

観測範囲せまいことは認めます。一応大学病院と有名研修病院は経験しました。


家族のことをとても大切にしていた医者も、いましたよ。夜中に患者さんが不安定であっても、娘と夕食をともにするため、当直に引き継ぎをする時間も惜しんで家に帰っちゃったり。急変した患者さんの何が何やらわからず大混乱に陥りました。まあ誕生日ですからね。土日の指示は研修医への電話連絡だけで全部済ませたりもします。それでなんとかなるものもありますが、それで無理そうであっても決して来ない・・・でもそういう医者の家庭は円満であるようでした。

私の見る限りの範囲でしかありませんが、残念ながら、全体に能力は前述の医師たちと比較してかなり低いようにお見受けしました。つまりそれにかかった患者さんたちは、前述の医師にかかった人たちより不幸であるように感じました。


私個人の観測範囲では、「本当は働きたくないのに、日本の医療制度という問題山積のシステムの中で奴隷のように働かされている」医師を見たことはありません。働きたくない人は働かない道を選んでいます。開業が大変なら、メジャー科ならフリーター医になれます。放射線科で頼まれ読影だけやってもいいでしょう。皮膚科でアンチエイジングビジネスやったっていいでしょう。私の選んだ研究留学という道も、ある意味臨床での激務から逃れた結果であることを否定はしません。医師は最低限のダメージで、その選択が可能な職業だと思います。ずるい職業です。働きたくないなら多少の給料漸減くらいは受け入れるべきですが、実際受け入れてると思います。私もね。

結局のところ身を粉にして働いていながら現状で限界ギリギリとなってついには不満爆発しちゃう人っていうのはそもそもは自分でやろうと思ってそういう働き方をしている人たちであったことは間違いないと思うのです。つまりよき医者である人、よき医者であった人たちです。しかしよき医者にも限界があります。よき医者達だけが、あまりの荷重な労働に悲鳴を上げ始めるのです。それでも彼らは働き続けます。過労死もあるでしょう。脳出血で倒れて二度と以前のような手術ができなくなった人も見たことがあります。医者であるからこそ、有能であるからこそ、そのリスクに気づいていないわけはありません。


患者さんを救いたいという思いの強い医師であればあるほど人生が不幸になる。一方、意識の低いと思われる医者であれば、別にそんなには不幸でないどころか特権もキープされ労働時間も短く給料もそれなり(場合によっては勤務医よりはるかに高額になり)、ラクラクモードの人生を送れるのが今の日本の医師という職業であるというのが私の見解です。もちろん全てがそうだとはいいませんが。マスコミにもよく出ていられるような諸先生方がどのカテゴリに属するか、それは読者諸氏のご判断に任せます。

それはとても歯がゆいことなのですがどうやって伝えればいいかわからず、冒頭のリンク先もそれに近いことを言おうとしてるように見受けるのですがブクマは批判的なものも数多かった。

働かない手段あるのだから働かなければいいじゃん、と。私もそう思いますが彼らはそうしないのです。純粋で、有能で、患者さん思いの彼らがそうしないのです。


私の提示する解決法なのですが、前述のような医師がああいう働き方をするのはもうしょうがありません。研究者としては、顕著な業績を挙げながらも5時に帰る審良静男先生を尊敬しておりますが、常人にできることではありません。研究とは違って患者さんはいつ急変するかわかりませんし。彼らには労働法なんて関係ないし、よく例にあげられる応召義務も、彼らには別に関係のないことだと思うのです。彼らは自分の意志でそれを破っているだけです。

そして私もまた、書いていて脳裏に浮かぶのです、あの素晴らしい先生たちの働きぶり。やっぱりここは日本でして、オランダではないので、科学的にこれが正しいから正しいだけではどうにもうまく動いていかない社会なのです。それが社会政策ならまだしも、医者っていうのはひとりひとりの人間と関わりあう仕事です。たとえ過剰な労働時間が判断を鈍らせるにしても、あれほど朝から晩までつきっきりで、汗を垂らしながら片時も笑顔を絶やさず命を救おうと真剣に動いてくれる医者、というのがいると、それだけで、患者さんは幸せそうだったのです。私はそう見たのです。正しい科学を端的に与えた患者さんではなく、こういう医者に支えてもらった患者さんが、たとえそれが人生の最期の時であったとしても、一番幸せそうに見えたのです。だからその働き方を否定することがどうしても出来ないのです。

ただこういうのはどうでしょうか。一年のうち十一ヶ月死ぬほど働いていいから、一ヶ月の有給のバカンス取得を義務とする。義務だ義務。プーケットでもなんでも行っちゃえ。

その一ヶ月、その医師が有能であればあるほど病院の実力は落ちることになるでしょう。

受け入れてください。人からなる社会の限界です。

研修医の時間制限は別に考えましょうってか現在も一応あるけど。

わたしは人々が、少なくとも人々に尽くした分くらいは応分に幸せになって欲しいです。これは医師に限りません。日本人は根本的に働くのが好きだと思うので、働くのが好きなりそれに合わせながら、それでも人生を楽しむ部分が生まれるような社会設計を望みたいです。

ちなみに「一ヶ月のバカンスを取る医師」のモデルはフランスです。フランスでは、「夏のバカンス期間中はパリで病気になってはいけない。医者がいないから。」という言葉があると言います(さらに「夏は病気になるならコートダジュールでなれ」みたいな言葉も見たことあるような)。これを日本国民が受け入れられるかにかかっていることになりますが、どうだろ。

今臨床やってないので好き勝手言ってますが、なかなかこれの実現は難しいでしょうから、まあ結局のところ、一部の人によき医者であることを諦めてもらって、みんなでもう少し分担して労働強度を下げていく方向が現実的だと思われます。残念ですが。

人種差別というもの

家族に言うと心配するだろうから言わないのだけど、どこにも吐き出さないのもなんかむかつくのでここに書き留めるものである。

今日、パリの街を歩いていたら、前から歩いてきたおっさんが急に肩をこっちに向けて僕の胸にドゴっとぶつかってきた。自分よりちっちゃいオッサンなので衝撃が大きくはなかったけど、多少のけぞるくらいはした。

なんじゃこりゃ、と思ったら、通りすがりながら彼は言った。

「中国人は出て行け!」


別に痛いって言うほど痛くはなかったが、心の痛みっていうのか、3時間ほど前のことなのに、ぶつかられた部分がなんかまだズキズキとする感じがする。

前にもこの日記のどこかで書いたのですが、このような人種差別的行動に出会ったのは二回目です。実力行使されたのは初めてだけど。そして、過去二回とも同じなのである。彼らは「中国人」に対する差別感情を、僕に対して向けてくるのです。

クレイジーだ、フランスではそういうことはほとんどないはずなんだけど、と同行のフランス人は言ってはくれたのだが、まああるものはあるもので、存在しないと思っていたわけではないけれど(前にもやられたし)。



地域の多数派から少数派である自分に対して差別的感情をぶつけられるというのは、心穏やかな経験ではないので、この心を落ち着かせなければいけない。

私がやるのは、まず「世界を知ることの出来ないような、経験も少なく知識もないかわいそうな人間だからこのような差別をしてしまうんだな」と思いきかせるものです。そしてこれを解消するには教育を改善すると良いだろうなどと思考は続く。

しかしここでもう一つの感情が湧き出ます。

「いや僕中国人じゃないんですけど(だからこれは不当である)」

彼はなんだかしらないが中国人に対して差別感情を抱いているらしく、私を中国人だと誤認して暴力を振るってきたわけだから、「私は中国人ではない」とは正当な弁明である。ただ、前掲の仮定によれば、彼らは知識レベルが低いために人種差別などという愚かで低レベルな思考に囚われているわけだから、そもそも「中国人」と「アジア人全体」の区別がついてない可能性も高い。だとしても、たとえそうであってもなおのこと、中国人でない者を中国人であると誤認していることについて指摘し、その不明をなじることは、傷ついてしまった自分の心を癒すには多少の効果はあるだろうと思った。

しかしまたこの感情には、「私は(差別を受けているような)中国人ではない、(差別を受けるべきではない)日本人である」という感情はないとはいえないです。あれだ、名誉白人的なあれである。

それに気づいたのは、同行する彼の奥さんが中国人だったからなのです。私は確かに、去っていく男の背中に言った、「いや僕中国人じゃないんだけど」*1

前に同様の差別を受けた時には、日本語で「いや中国人じゃね〜し!」と言いながら去っていったのだが、今回はこれを言った後ちょっと戸惑った。

それは、「中国人なら別にやってもいいんだけど」って意味になるのか?彼の奥さんがこれをやられたんだったら別によかったということかと。

それは普通に、別の差別構造を包含していますね。

と、思いました。自分は至らない人間であることを再認識させてくれた、人種差別丸出しのオッサン、ありがとうございました。精進いたします。ただあんまり葛藤に陥るのも精神衛生上よくないので、できるならまずは、フランス人のオッサンはいきなり方向転換してぶつかってくることがあるぞって警戒する方向で。

※ 重大な注意:通常フランス人が急に「ぶつかってくる」場合、人種差別なんかよりもはるかに確率が高いのは「スリ」ですのでみなさんお気をつけください。

*1:「メ、ノン!」っていう幼稚園児がよく使う話法的な感じで

前回の雑感

前回の記事ですが、何人かの方がされた冷静な指摘である、「あの件の店主の言動は確実に障がい者差別的と言えるのか?」についてはおっしゃるとおりで、確実に間違いなく差別的と言うには難しいところがあるかもしれません。この点お詫びいたします。前提条件として、「店主が差別的な感情を持っていたか」に関わらず「発言自体が差別であるかどうか」が問われる件であると思いますが、であるとしても、これが差別だと言い切るにはやや微妙な感じですかね。

私が前回挙げました(実のところ、ここだけ読んで後は帰ってもらっていい感じで書いたんですけど)

  1. 日本人は、「かくあるべし」という規範に沿おうとする。あらゆる面において。
  2. 欧州人は、「こうであってはいけない」という規範に沿おうとしているようだと私は思う。で、「こうであっていけない」以外は自由で良い、みたいな感じで。

ですが、これは当然私のオリジナルの考えであるはずもなく、「菊と刀」の欧米の「罪の文化」と日本の「恥の文化」を稚拙に書きなおしたという程度のものです。id:hisawoooさん、こんな感じでよろしいでしょうか?(短すぎ?)フランスにこれが当てはまるかと問われると、私は当てはまるなと思っていますが、「当てはまるな〜」という感想の域を出るものではありません。

ところで前回記事でわりと多くの方が論点のずれた非難をされており(冒頭の件はずれてませんよ)、自分の日本語力の至らなさに申し訳ない思いを抱いているところです。前回の記事の構成というのは、

まためいろまさん他海外在住者が変なこと言ってる、議論がかみあってない感がある

もしかすると欧米と日本の規範意識の違いがこのズレをもたらしているのでは?

その規範意識の違いを元にして、例の件の受け取り方の違いを説明できるように見えた

私は個人的には欧米の規範意識のあり方って結構好きですが、日本にそのまんま持ち込んでいいかどうかはわかりまへん

いずれにせよめいろまさんが言ってることは変だ(でもその心情は自分としては理解しないでもない)

ところでフランスの接客サービスはウンコである

って感じなんですけど、どこに激しい非難を巻き起こす要素があったのかわかりませんが、まあなったものはしょうがありません。「なんでフランスなんかを見習わなきゃいけないんだよボケ!」みたいな反応しちゃった人は是非読み返してもらいたい気もしますが、そんなことする気もないと思うので特に求めません。

「フランス人はお店悪く無いって言っている!」っていうコメントあったみたいですが、私の周りのフランス人は「いや、運べば?」って感じでした。これについては前回記事の最後に「人それぞれ、分布でしょうね」って書いてありますから、フランス人のランダムサンプリング集団のデータでも持ちだされない限りは、そんな感じで私の方は構いません。私は「これは仮説である」という程度でしか語っていないのに何を無理やり読み取りたかったのでしょうか。特に意味がないコメントという感じです。

一方、id:Midas先生から、まあブコメを残すくらいには値するエントリであると判断されたことについてはとても光栄に思っております。深遠なので理解できていない部分があるかもしれません。今後とも宜しくお願い致します。

あと共感していただいたり、「まあ面白いね」というくらいのコメントを残してくださった皆様方、ありがとうございます。励みになります。Facebookだったら「いいね!」を押したいところです。

雑感(フランスから)

まためいろまさんが猛威を振るっているようだったので感想を書きたくなった。

乙武洋匡オフィシャルサイト

の件です。

障がい者差別はいかん。フランスも曲がりなりにも欧米先進国なので、障がい者差別は(少ない)だろう。でも別に日本も障がい者差別の解消自体は進んできていると思う。だが日本のほうがやや遅いだろう。しかしそれは工業化の順番にすぎないと私は思っている。

ここで私は思うのだ。日本と欧州の違いは何か。つうか、海外在住日本人の感覚のちょっとズレ加減はいったいなんなのであるか。これは感覚的なものだけど、私はこう思っているのです。

日本人は、「かくあるべし」という規範に沿おうとする。あらゆる面において。

欧州人は、「こうであってはいけない」という規範に沿おうとしているようだと私は思う。で、「こうであっていけない」以外は自由で良い、みたいな感じで。

ではないかな〜、と。

そういうわけなので、例の乙武さんと店長の場合。

日本人ならば、「乙武さんはこう振る舞うべき」「店長はこう振る舞うべき」のあいだの論争になるわけである。なっている。あれやこれや、あっちはアレが悪い、こっちはこれが悪い、の論争になる。

でも欧米からすると、どちらもどう振舞っても基本的には自由である。しかし「障がい者差別はしてはいけない」。いっぽう乙武さん側に「〜してはいけない」プロトコルに引っかかる点は特にない。障がい者は店に事前に通告したほうがよいことはよいのかもしれないが、それをしないことが決定的な瑕疵である、という法的根拠はないでしょう(当たり前か)。この際、決着をつけるにおいて、「したほうがよかっただろうな〜」という玉虫色の意見は出ない、ようだ。だって自由じゃん。つまり乙武さん側に「〜してはいけない」ことをしてしまった点は一つもない。であるので悪いのは店長だ。

そういうわけなので欧米在住者が脊髄反射的に「あれはよくない!」といきり立ってしまうのはこういう欧米型社会の振る舞いを身につけたがゆえであると私は思うのです。さらに欧米在住者が、ほんのちょっとも乙武さん側の行動への注文をつけることを許さないのも、単に思考回路の違いなんじゃないかなと思うんですよね。

ネット上では、「かくあるべし」論からの批判と「であってはいけない」論からの批判が入り乱れてわけわからんことになってるように思う。

さて、日本的考え方と欧米型考え方、どっちがいいのかということは決着ついていないと思います。私自身は欧米のように、「これはダメ、あとは自由」のほうが好きですが、また日本的考え方が特攻隊やブラック企業を産んでんできただろうと思いますが、しかしそれはまた工業化や高度経済成長を成し遂げた理由でもあろうし、日本は絶対それをやめるべき、とまでは確信できない。そうなったほうが日本人全体が幸福になるという確信はないです。

でも検討する価値はあると思う。

めいろまさんもウンコみたいなことばっかり言ってるけど、あれはあれで真剣にいろいろ心を痛めて考えてるんじゃないかな、うん、きっとそうです。


ところで「店主の対応、態度」を問題とした意見がいくつかありましたが、うーん、それって、そういう人達はフランスでの食事はできないだろうなって思う。一本1万円以上のワインを頼むような店にいくつもりなら別だけど。フランス人は、スーパーの店員だろうとレストランのギャルソンだろうと地下鉄の駅員だろうと、誰でもが気に入らないなら客にキレて罵倒するくらい朝飯前である。

すなわち、いくら横柄で不遜で見下すような態度をとったとしても、それは欧米標準としてありえないこと、ということはない(多分めいろまさん、カリフォルニアさんあたりもこの点は問題としていないはず)。

で、あるが、障がい者差別的なことだけは(多分)言わない。人種差別的なことも。ただし、家族連れを追い返すくらいはするかもしれん。

それがなぜであるかの理由はすでに説明した次第。

まああんまり集団まるごとラベリングするのは知的でない行為だし、人それぞれ、っていうところも多いですが、でもやはり集団として分布としての違いが観察されるだろうと私は思っています。