「遺伝子の」か「遺伝的」か。あと「エピジェネティクス」をむずかしい単語で訳さないでほしいことなど

またしても新聞記事の用語についての記事です。

前回は朝日新聞記事について、明確に批判をしましたけれど、今回は些細な事です。専門用語の翻訳を間違えているという、よくあることです。まあ日本の将来を担う新聞社さんでもないしね。

http://jp.wsj.com/Life-Style/node_441748

ウォール・ストリート・ジャーナル誌の翻訳記事です。はてなのぶくまを見ると、ほとんどみなさん記事の間違いを指摘し正しく理解していらっしゃるので、このエントリ書いた意味あるかなあと、書き終えて読み直しながら今思ってますが、まあいいや。

英語原文は、最近の研究成果の素晴らしい解説記事です。原文は、WSJ日本版からのリンクでは「有料」となっているのに、こちらでは読めるのはどうしたことなんでしょうか。

http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304363104577390462225369908.html

よく理由わかりませんが。

翻訳タイトルと原文タイトルを並べますと、

『虐待を受けた子どもの傷 遺伝子にはどのように残るのか』

"How Dickensian Childhoods Leave Genetic Scars"

ということです。Dickensianっていう単語があるんですね、なんとなく伝わるな、面白いな。わたしが専門用語を正しく、堅苦しく訳すなら

「虐待を受けた子供に残された遺伝学的痕跡」

でしょうか*1。「遺伝子」という言葉が入っているか入ってないかが、本質的な科学業績の正しい理解のあるなしを意味しています。英語原文howって書いてあるけどhowについて文中ほとんど説明されてねーぞ。メチル化とかテロメア長は残された痕跡そのものだし。howいらないと思います。

この記事は、ゲノムDNA上のタンパク質コード領域である「遺伝子」の、DNA配列そのものに、幼児期の虐待によって傷がつく、という意味ではなくて、「エピゲノム的な = ゲノムDNAの化学修飾などによる、遺伝子発現などの二次的変化を引き起こすような」痕跡が残る、ということを紹介しているんですよ。

"genetic"に「遺伝子の」という意味が含まれていることは、ないことはないと思いますが、一般的にはこれは「遺伝的な」「遺伝学的な」と訳されるものです。たとえばGA = genetic algorithmは通常「遺伝的アルゴリズム」と訳されます。他でも、一般的な用法として、geneticを「遺伝子の」と訳す文章は、あまり読んだことがありません。実際のところ、"genetic"は、"gene遺伝子"と関連した形容詞と言うよりは、"genetics(遺伝学)"と関連した形容詞として使用されることがほとんどであろうと思います。GAもそうです。明確に「遺伝子の」って言いたい時は、"genic"とは言うかな。

ここは、ここについて日本人の理解がすこしばらつきがちなのは、geneticという単語が日本に導入された際の理解の誤りがあったのではないかということが、日本人類遺伝学会において指摘されたことがありました。学会によればgeneticsは、本来heredity=遺伝的継承とvariation=遺伝的多様性を扱う学問として定義されたとのことだそうです。しかし日本では前者のみが強調されて伝えられたとのこと。そしてgene = 遺伝子は、遺伝的継承や遺伝的多様性を引き起こす概念的な単位として、それより後に提唱された単語であるとのことです。

このあたりはずっと前のエントリでも書きましたね。

というかまあ本文にはもっとあからさまな変な翻訳、epigeneticを「非遺伝」と訳すというようわからないことをやってたりします。ギリシャ語epiが「非」を意味したりしないだろう〜。皮肉なことに、ここで使われている翻訳文中

『「非遺伝」疫学』

に対応する原文は"epigenetic epidemiology"なのですが、後者にもepi-がついてますね。MacのOxford英英の語源欄によると、epidemiology はギリシャ語 - ラテン語由来の単語で、 epidemia + logyで、logyは「〜学」を表し、ギリシャ語「ロゴス = お話、論理」に由来するようです*2ギリシャ語epidemiaはprevalence of diseaseで、 epi 'upon' + demos 'the people'に由来します。人々の上層をいきかうような疫病のイメージですかね。

ということなんですから、もしepigeneticを「非遺伝」と訳すのだったら、後者epidemiologyだって「非人類学」とかになっちゃうぞ*3!いいのか!やはりepiは「上」です、普通。

最後の方の段落では、epigeneticsを「後成的遺伝学」と訳語を修正してるけど(ひとつの論説の中で訳語がぶれるってどうなんだ)、この訳語あんまり好きじゃないなあ。これはまあ使ってる人もいるからまあいいけど。カタカナ「エピジェネティクス」でお願いしたい。

あと細かいんですけど

「メチル化とはDNAの1つの文字にメチル基が付加されることで、隣接する遺伝子の活動を抑制する傾向がある。」 <= 「Methylation, the addition of a methyl group of atoms to one DNA "letter," tends to reduce the activity of nearby genes.」

はおかしい。ここでいうneabyは隣接っていうより近傍っていうくらいの意味。

些細な事でした。仕事しなきゃ。原文自体はよく書けていて、こういうのを日常的に読めるアメリカの読者と日本の読者との差は、これはやはり開くだろう。とくに最後の二段落が素晴らしい。

*1:scarを痕跡と訳したのは、第一に本文中に挙げられた科学的所見はいずれも「傷をつける」という意味合いを含んだものはほとんどないこと(テロメレースによる分解とエピゲノム的なメチル化の事例が挙げられている、ゲノムレベルで「傷がつく」というのは通常放射線などによる変異などを指す)、二つめには欧米的な文脈からscarを、キリストが磔にされた時につけられたstigmaが熱心なキリスト教信者に出現する宗教的な聖痕と似たような意味合いを持たせて使用しているのではないかという類推からです。類推というか、ゲノムの文脈ではよくstigmaという言葉は使われます。正確にはわかりませんが、「ゲノムに傷がついた」と書くのは、被虐待児の方々に失礼かなとは思います

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/-logy%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

*3:実際のところ語源から現在の単語に遷移するにつれて意味合いが変化することはあるでしょうから、これは、まあ言いがかりです