空気感染と飛沫感染と

あのねえ、何度も書いてますけど私はゲノム科学者ですよ。でも一言申さずにはいられない。

人に感染すると致死率が5割以上の高病原性鳥インフルエンザウイルスは、一つの遺伝子が4カ所変異するだけで哺乳類の間で空気感染するようになることがわかった。

http://www.asahi.com/science/update/0503/TKY201205020671.html

ええっ!なんだってっ!インフルエンザウイルスといえば当然飛沫感染様式droplet transmissionを示す病原体ですが、遺伝子変異によってなんと空気感染airborne transmissionに変化するのですか?これは恐ろしい!(・・・なんて、んなわけねーだろ、と思いながら書いてるわけですけど)

この病原体の「感染様式」なるものは基本的に感染予防のために分類されています。標準予防策Standard precautionなどと言われており、はてサのみなさまが大嫌いな(?)アメリカ的医療標準化の一貫です。ですので逆に言えば比較的新しい概念で、お年寄りの日本の医者にはご存じない方もよくいらっしゃいます。

一番単純なのは接触感染contact transmissionで、触ったら感染する。触らなかったら感染しない、というもので最重要なのはメチシリン耐性黄色ブドウ球菌MRSA)や、小児だったらとびひを来す溶連菌などでしょう。この場合の感染予防策は「素手で触らない」「患部に触ったら手洗いする」などになります。

飛沫感染droplet transmissionというのは、患者の咳などによって排出されたウイルス/細菌が原因で他のヒトに感染するような感染様式ですが、病原体はやや大きめの「飛沫核」内に存在するため咳によって外的世界に飛び出たらすぐに地上に落下します。そのため、飛沫感染予防策は「患者の1.5m以内にできるだけ近づかない」を基本として組み立てられます。風邪ウイルス、肺炎の病原菌を含め呼吸器感染症の病原体のほとんどはこの感染様式です。

一方空気感染airborne transmissionは飛沫粒子が小さすぎるため空中に病原体が漂ったままとなり、落下しないので患者周囲は長期間感染力を保ったままになる。そのため空気感染予防策は「患者の個室隔離」が原則です。結核、麻疹(はしか)、風疹(三日ばしか)など数少ない呼吸器系感染症がここに含まれます。中国で以前話題になったSARSもおそらくこれだろうと言われています。N95マスクが必要とされているのもここに含まれる疾患群です。

芸能人が結核になったりすると他の病気と比較して騒然とするでしょう。あるいは大阪の西成なんていうのが有名だったりしますが、結核は他の病原体とは感染様式が違うからなんです。また、以前アメリカが日本の麻疹・風疹ワクチン政策が不十分なことに憤っていたことがあったと思いますが*1、これも同じ理由です。感染様式が他とは異なるからです。

そうかーインフルエンザも、遺伝子変異によってあの魔のairborne diseasesの仲間入りを果たしてしまうのか・・・と思って論文アブストラクトを読もうとしたら、それ以前にタイトルレベルで

Experimental adaptation of an influenza H5 HA confers respiratory droplet transmission to a reassortant H5 HA/H1N1 virus in ferrets

http://www.nature.com/nature/journal/vaop/ncurrent/full/nature10831.html

タイトルに書いてあるじゃん!droplet transmission = 飛沫感染って!(まあわかってて調べたんですけど)

まあ実際のところ、まだまだ空気感染と飛沫感染を混同している人は医者にも多いわけですけど、このNatureタイトルがきちんと定義通りに使用しており、またアメリカCDCやWHOがきちんと使っていることからも、これはこの方向で書くので世界はまとまっていくだろうし、日本の医療も殆どの場合世界に追随します(当たり前ですけど)。朝日新聞さんは日本の高級紙なんでしょうからここらへんしっかりしてほしいところです。こんな用語の混同を来した報道をしているようでは、厚労省のインフル対策に何か提言できるレベルではありません。

・・・と思うのですが、おかしいと思う方がいらっしゃればご意見くださいな。僕は朝日読売毎日さんには、この感染様式の用語に十分気を配った上で、医療報道などしてもらいたいと思うのです。

<追記>

追記です。ブコメで、各病原体の感染モードについて「そうだったっけ?」というコメントを散見しますので(わかります)、本文章が立脚するソースを明示したいと思います。ただし、一般に医療の知識はほぼすべて現在進行形の研究によって更新される可能性がありますので、これが絶対と言うつもりはありません。わたくし界隈の、熱病大好き・青木先生ラバーな医者の間ではここらへんがソースでございました。

http://www.cdc.gov/hicpac/2007IP/2007isolationPrecautions.html

コメント各位へ参照部位をご紹介いたします。

id:houyhnhm さん、Appendix A, page 103より、インフルエンザウイルスの感染タイプは「D」=飛沫感染とのことです。

id:physician さん(たぶん先生ですか?)、Appendix A, page 113によれば、肺結核の感染タイプは「A」 =空気感染とされています。

id:REV さん、空気感染の感染メカニズムとしてはpage 18 "I.B.3.c. Airborne transmission"の章における記述 "Airborne transmission occurs by dissemination of either airborne droplet nuclei or small particles in the respirable size range containing infectious agents that remain infective over time and distance (e.g., spores of Aspergillus spp, and Mycobacterium tuberculosis)."あたりがわたしの認識のもととなっていると思いますが、もしおかしければご指摘ください。結核の専門家ではないので、ガイドライン文章から誤って認識しているところがあるのかも?