医者の数学の必要性の話

例の話題の記事の関連で少し考えてみました。

いったいいつ、医者や詩人や弁護士が、高校以降の二次方程式を解かなければならないだろうか?

http://wired.jp/2012/08/21/algebra-is-not-necessary/

医者にだって数学は必要だよヽ(`Д´)ノプンプン!

高校以降の二次方程式っていう意味がよくわかりませんが、そこに「この種の等式を証明できることが、本当に必要だろうか」で出されていた例は四次式とはいえ単純計算だったので、おそらく日本で言う中学校の因数分解とかのレベルを指しているのだろうと想像します(そうでなければそこまで衝撃的な提案とも言えないだろうし)。

そこで本当に必要か?と考えてみました。中学レベルの方程式計算。

ふつうに臨床疫学の結果(治療効果や副作用におけるP値、リスク効果、検出力の評価など)を解釈する際に必要というのもありますが、それだと面白く無いのでそれ以外を挙げようと思います。

ガンマ計算

患者さんが瀕死の状態で、おしっこが出なくなったり血圧が保てないというようなレベルの時、ドーパミンとかドブタミン、ノルアドレナリンなどの薬を状況に応じて医者は使ったりします。これは、必ずしも救急レベルにかぎらず内科や外科で広く行われうるプラクティスです。これらの薬は大変有効域が小さく、しかも噂によると(有効なエビデンスなし)投与量によって薬効が変わってくるので、きめ細かに投与量を決める必要があります。

ガンマ計算とは、患者さんの体重に応じて

1γ = 1μg/kg/min

という量で精密に薬を投与していくときにする計算です。このガンマを使えば、体重によらず一定の有効量の薬を投与できるということです。で、そのまえにここでいう「kg」は標準体重を使うのですが、通常標準体重とはBMI = 体重(kg)/身長(m)/身長(m)においてBMI=22であるような体重を指すので、

標準体重 = 22 * 身長(m) * 身長(m)

ということです。例えば身長160cmの人に2ガンマの薬を投与したければ、標準体重は22*1.6*1.6 = 56.3kgで、

投与量(μg/hr) = 2γ * 56.3kg * 60min = 6756 μg/hr

で持続投与すれば良いことになります。プレドパは例えば600mg/200mLの剤形なら3000μg/1mLということになるので

投与量(μg/mL) = 6756 / 3000 = 2.252 mL / hr

最終的に、持続投与する機械に打ち込む番号はmL/hrの数値になります。

ここで頻繁に左右式の項の入れ替えをしていますが、これを当然のようにできるのは中学レベルの方程式計算ができるからだと思うんですよね。ほかに同様の計算が必要なものとして、抗癌剤投与時の体表面積での投与量補正などもあります。

ですから医者は数学普通にやっとくべきですよね。

もちろん、体重とγを打ち込めば自動計算してくれる機械もあるし、iPhone(昔はPalm)で計算したっていいのですが、自分で計算できるということは計算間違い(体重の打ち込みミスとか)にすぐに気づくということを意味します。特に日常的にこれをやる救急科や外科でなく、突然内科病棟で発生した事態に対応する医師とかの場合、感覚よりも暗算で大体の値の範囲を思い浮かべられるということは治療の正確性にかなり貢献することだと思います。計算機の時代であっても必要でしょう。

診察・診断

アメリカの幾つかの教科書や研修医向けマニュアルにはつぎのような方程式が載っています。

P(疾患Aである | 検査Bが陽性) = P(検査Bが陽性 | 疾患Aである)P(疾患Aである) / {P(検査Bが陽性 | 疾患Aである)P(疾患Aである)+P(検査Bが陽性 | 疾患Aではない)P(疾患Aではない)}

なんらかの検査や、また診察所見でもよいのですが、なにかにしろ患者さんから情報を得たことによって、診断の確からしさがどのように変化するかについて、ベイズの定理で表したものです。検査後確率と言います。もうひとつこちらの検査後確率も考えられます。

P(疾患Aではない | 検査Bが陽性) = P(検査Bが陽性 | 疾患Aではない)P(疾患Aではない) / {P(検査Bが陽性 | 疾患Aである)P(疾患Aである)+P(検査Bが陽性 | 疾患Aではない)P(疾患Aではない)}

これをどのように活用できるかというと、実用的には比をとって

P(疾患Aである | 検査Bが陽性)/P(疾患Aではない | 検査Bが陽性)=P(検査Bが陽性 | 疾患Aである)P(疾患Aである)/ P(検査Bが陽性 | 疾患Aではない)P(疾患Aではない) = {P(検査Bが陽性 | 疾患Aである)/P(検査Bが陽性 | 疾患Aではない)} {P(疾患Aである)/P(疾患Aではない)}

右式の右側は、予め(通常は現時点までの情報を総合して、というのはベイズの式はつなげることができるので)わかっているその病気であるっぽさの確率の比です。いくつかの情報を総合してとは言うものの、すくなくとも現在の医療ではこれは完全に客観的に確率として与えることのできるものではなく、ある程度の「主観確率」を含むものです(だいたいこんくらいだろうな〜みたいなもん)。

右式の左側は、分子は検査の感度、分母は(1-検査の特異度)というもので、感度と特異度はたいていの医療検査については得られています、ただし診察所見についてはないものもありますが現在知見は蓄積されています。これを特に「陽性尤度比」と言います。アメリカの教科書などではLR+(positive likelihood ratio)と略されていたりします。もちろん陰性尤度比も定義できます。

これがわかっていれば、「この検査をした場合、陽性か陰性かで診断の確率が何倍変わるか」がわかります。例として、セイントとフランシスの内科診療ガイドという研修医マニュアル本が挙げている数値を引用しますと、

  1. ほとんどの有用な臨床的検査は、陽性尤度比は2 - 5の間。
  2. 診断において非常に有効な検査は、尤度比が10を超える。だがこういう検査はたいてい高額であり、また患者さんの負担もとても大きい。
  3. ほとんどないけれども、尤度比が100を超えるような検査もあって、それらはそれをやるだけでほぼ診断がつくと言える。たとえば癌組織を直接採取して顕微鏡検査するような場合や、腹腔鏡検査などが挙げられる。

ちなみに陽性尤度比1というのは、「やってもやらなくても検査後確率はなにも変わらない。やるだけ無駄。お金の損」という意味です。

このようにベイズの定理を用いて考えることによって、いくつか臨床家が驚くような結論が得られたことがあります。

細菌性髄膜炎という病気があって、お子様をお持ちなら肺炎球菌やインフルエンザ桿菌、髄膜炎球菌といった起炎菌により小児の死亡の大きな原因の一つであり、そのためプレベナーやアクトヒブ、あとまだ日本で未認可と思いますがメンセバックスなどというワクチンを打つわけです。髄膜炎にも種類がありますが、そのうちこれらを原因とする細菌性髄膜炎は一刻を争う病気で、救急の現場でも診断の疑いがほぼ着いたら検査をしながら治療薬の投与を開始するというほどのものです。

それで、その診断を急いでやらないといけないわけですが、古典的な教科書などでは頭痛・発熱・嘔吐の一般症状に加え項部硬直、ケルニッヒ兆候、ブルジンスキー兆候などで診断するなどと書いてあったものなのですが(診断確定は脳脊髄液を直接採取して細胞・生化学検査)、ケルニッヒ兆候、ブルジンスキー兆候はいずれも陽性尤度比が0.97・・・つまり無意味だったのです*1。何十年も教科書に書いてあって、臨床の現場でもやられていたことなのに。

ちなみに個人的にケルニッヒ、ブルジンスキーともに診察で観察したことはあり、極めて印象的な所見です。この「極めて印象的」であるということが、医師に認知的バイアスを与えていたのだろうと推察されます。統計ってほんと大事です。そしてその統計を理解するために必要なのは数学です。基本的な代数の知識とかです。

一方、Jolt accentuationなどという診察法があって、患者さんの首をブンブンと横に振ったら頭痛が強くなる、という地味なものですが、陽性尤度比が2.4*2。つまり有効な診察法です。少なくとも僕が医学部在学中の教科書にはあまり書いてなかったと思います。ですが今は日本の臨床でもよく使われます。

だから、医者も、数学必要ですって。

ちなみにこのベイズを使った診断的意思決定をもし採用するならそれには医療診断における哲学的な違いが含まれてきて、主観確率を容認するなどといったベイズ主義に立っていることになります。たしかに陽性尤度比の点推定値のみを強調しているきらいもありますが、事前確率に基づいてその重要性が変わるともおしえているのでやはりそうです。おそらく最初に医療判断の場にベイズを持ち込んだ人たちは意識的にそれを目論んでやったことでしょうが、現在研修医などに対してこれを教えている医師たちがそれを意識しているかはわかりません。しかしおそらくわかっているべきであろうし、そのためには単に「感覚として量的に捉える教え方をする」よりも、数学をきちんと理解していることが重要であることは当然のことだろうと思います。