「科学の曖昧さや不確かさに対する皮膚感覚の欠如」を改善するには、なにか素敵な言葉が必要なのではないだろうか

池田信夫さん、いいこと書いてる*1

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51761854.html

また、ここで引用されている「科学の曖昧さや不確かさに対する皮膚感覚の欠如が、理系に対する文系、専門家に対する市民、原発現場に対する東電本社、電力会社に対する規制当局や投資家など、様々なレベルで生じたことが、今般の原発危機の原因や対応、除染などの極端な反応の背後にあった。」という齊藤誠さん(先生?)という方のtweetには、もちろん全体として3月からずっと感じていたことではあるけれど、きれいな文章で表されたなと思った。「皮膚感覚の欠如」かあ、と。「欠如モデル」という言葉が一時期話題になっていたことがあったと思うけど、欠如しているのが知識ではなく皮膚感覚ならばなにか対処のしようがありそうなものだ。

http://twitter.com/#!/makotosaito_v2/status/145821288815013888

というところで僕が大好きな言葉を思い出したのでそれを紹介したいと思う。それは今から100年以上も前の1904年、アメリカの偉大な内科医ウィリアム・オスラー*2が言った言葉。

Medicine is a science of uncertainty, and an art of probability.

まずは医療は科学であると高らかに宣言している。しかもそれは「不確実性」の科学である。ゼロか1かの世界を決定する科学ではない。医療の結果は不確実だが、その不確実性そのものを対象とした科学にもとづいていると言うのである。1904年という時代を考えると、あのころはまだ物理学ですら決定論に支配されていたはずだから、よほどの慧眼である。あるいはこの文章の冒頭に置いているところからは、その不確実性を医学の発展によってできる限り少なくしていきたいという意思すら読み取れよう。だがそれでも不確実性は最後まで残る。「人間」という限りなく複雑な対象を相手とする分野にとってこれは当然のことだが、100年も前にそれを明確に指摘し、今にまで語り継がれる言葉として残したことはやはり偉大なことだと思う。

さらに、しかし医療はそれだけではないとする。医療はアートでもある、そしてそれは確率を取り扱うアートであるという。医療は医科学のもとに解明された科学的事実だけで厳密に行おうとすると、患者に対して冷たい医療、心の通わない医療などと言われることもあるけれど、それだけではなく現在のEBMというパラダイムからすると、確率分布にかならず両側に裾野があって、EBMに完璧に沿った治療は単にもっとも平均に近い人にだけ最適な治療となってしまうこと、また疫学的研究をどれほど精緻にやっても未知の関連する因子が残っている可能性があり*3、論文の対象患者と背景がほとんど一緒である眼の前の患者さんについての医療的介入の効果が、研究結果と同一であるとは限らないことなどを考えあわせれば、「アート」という言葉の妥当性はともかく、医療には「サイエンス」だけで完成させるべきではない専門家の勘や経験のはいり込む余地を認めるべきだ*4。目の前の患者さんとそれに起こっている医療的現象について、自らの知識と経験を総動員し、教科書や論文の言っていることまるごとそのものではない医療行為をすることをオスラーははっきりと許容している。

ところで、本来はMedicine is a science of probability, and an art of uncertaintyと言った方が意味は通りやすいと思われる。だがそれをひっくり返した。わざとやったのだろう。「確率の科学」なんて言ってしまうと対象がかなり限られ視野が狭くなってしまうし、第一、冷たすぎる。確率を科学するのはその通りだが、その目的、本質は不確実性を科学したいことにあると強調した。いっぽう「不確実性のアート」なんて言ってしまうと、もはやあいまいな医療行為のほとんどはアートの名を使って逃げることができてしまうようになる。ホメオパシーだって免疫賦活療法だってなんだってそれで追求を逃げ切れてしまう、医師免許さえあれば。しかしオスラーはそう言わなかった。むしろ「確率のアート」と言った。つまり、医者がアートと言う行為、はっきり言ってしまえば「科学的とは言えない行為」を行う場合、十分な科学的研究のもとに得られた「確率」をもとにしているというのがまず大前提であり、それをもとに患者背景や状況や自らの経験を元にちょっと動かすという程度のアートにとどめるべきだ。と言っているのではないか。医療行為にアートは必要である。医者はそれを行うことを許されるべきである。しかしその使用範囲には最大限気をつけるべきだと言っているのではないか。このように老練な、卓越した知識を持つ医師の優れた見解を一文に全て込めているように、読める。

この言葉は日本でも教授たちがコモンセンスの1つとして研修医に言ったりするし、臨床や研究のトップジャーナルでは今でも、ときにはその慧眼を賞賛すべく、またときには今のわれわれの姿に自戒をこめつつ、冒頭のエディトリアルなどで紹介されている言葉だ。

とても簡単な単語しか使っていないのに明快で含蓄が深い。この言葉を念頭に置きながら診療をする医師は、EBM(根拠に基づく医療)のほんとうの意味をしっかりと把握しながら患者さんを診ていることだろう。簡単な言葉でありながらものごとの真髄をついており、それを意識するにせよ無意識であるにせよ、ただしくものごとを捉えるためにものすごく役立っている。それが医師の皮膚感覚につながっていると思ったのだ。

これは医師のための言葉だけど、日本の一般市民のかたがたが放射線被曝についての健康リスクを理解するための皮膚感覚を得るために、なにかこのような決定的な「言葉」が必要なのかもしれないな、と思った。日本語で表された、とても簡単明快で、しかし美しいような、そんな言葉。

誰かつくってください。

*1:たまには?(笑)

*2:どれくらい偉いかというと、「臨床研修」なるものを創設したのが彼だ、というくらい偉い。現在全米最高の大学病院の一つであるジョンスホプキンスの初代内科教授で、複数の病気や症候に彼の名前が残っているし、彼が書いた内科学書は21世紀に至るまで使われていた

*3:たとえばいま僕はゲノム疫学をやっているが、このゲノムなんていう情報は20世紀には十分得られなかったので、今からすると20世紀に行われた疫学研究のほぼすべてがゲノムについてunknown factorとして処理していたことになる

*4:ちなみにEBM発症の地、カナダ・マギル大学は当初疫学研究の根拠に基づく治療だけを行うものをEBMと称していたが、のちに専門医の経験による判断というのをEBMの中に組み込んだ。最初のやり方では、このオスラーの言葉の後半部を無視しており、世界に受け入られることは難しかっただろう。ちなみにオスラーは、マギル大学の教授であったころもあった